今日は6月21日日曜日です。
わが社と駅の間、丁度中間点あたりに、小さな神社があります。
その神社には、歩道から境内につながる急な階段があります。
桜が満開の時には、そこは桜の木にかこまれた風景、小さな神社ですが
それなりの雰囲気を醸しだしています。
で、いつのころかよく覚えていませんが、その境内につながる階段の前を通るとき、
そこで立ち止まり、境内にむかって、二拝二拍手一拝を行い、最後に、
“ありがとうございます” と言うようにしています。
気持ちを整えるために、なにか良い感じがしているので普段からそうすることを心がけていましたが、ある日、ふと、その“ありがとうございます”にも、実は二種類あることに気がつきました。
一つは、“これから、もっと良いことがありますように。 ありがとうございます”
ということ。
そして、もう一つは“すでに、素晴らしいものをいただいています。
ありがとうございます”ということ、そして、不思議なことに、
“よいことがありますように”と、思うのではなく“すでに、いただいています、
成就しています”と、思いながら、“ありがとうございます”と、言うほうが、
心の落ち着き度がどうも良いようなのです。
これは、なぜか。
おそらく、“願い、希求”の言葉からは、渇望が生まれ、そこになにかしら不安定感がでてくるのかもしれません。
しかし、“すでに成就している”という言葉からは、満たされ感が生まれ、そこからは安定感、自己一致感が強くなるようです。
何気ない、本当に、何気ない、“ありがとうございます”という言葉
その言葉に込める自分の心の姿勢一つで、今日の自分という存在を、なにげに調律ができるかもしれない。そんなことを、その小さな神社から教えていただいたようです。
○ なにがしかの願いや目標、やってみたいこと、実現できればいいなぁ。。。
と思うこと。これは、誰しもが、様々な表現のカタチを通じて言葉にしたり、
行動にうつしたりしているようです。
それは、自分に向かうことだったり(自分は、こうありたい)
あるいは、他に向かうこと(部下には、こうあってほしい)もあるようです。
そんな時、
□ 不足している、できていない、ほしい、やってくれ
という思いから始まると、人の言葉と行動は、やや安定感を欠くことや、そこに、
ささくれや、棘が生えてきたりすることがあるのかもしれません。
しかし、現状が、どうみても、不足している、できていない、ほしいやってくれ
ていないと見えていたとしても、いやいや、それでも、できていることはある、
満たされていることもある、やってくれていることはある。
あるいは、いま、満ち足りていないこと自体が、自分にとって挑戦の場が
しっかりと“与えられている”ことなんだと、一歩下がり、現状をさらっと
肯定的に受け止め、
□ 満ち足りている、できている、与えられている、やっていただいている
ということを心にイメージすると、そこからは、やわらかな安定感が得られ、
そして、自分が次ぎに発する言葉やとる行動を、ゆっくりと選択する余裕が
得られるのかもしれません。
職場でありそうな言葉にすると
□ 彼は、これも、できないのか。。。
ではなく
□ いやいや、まずは毎日、出社してくれているな。まずそれに感謝しよう
ということ。
すると、嘆く言葉からは、棘がでてきますが、何でも良いから
一回感謝すると、そこからは、慈愛がうまれてくるようです。
今日も一日、日々の日常生活や仕事場において、普段の
自分は、“渇望”や”嘆いて”いるのか、あるいは“満たされている”と
感じているのかをさらっとふり返り、今の自分にすでに
“与えられていること”、“満たされていること”という視点から、
自分自身や自分の周囲を見つめ直し満たされていることへの感謝と。
そこから自分の言葉と行動を律する心の余裕・慈愛を自分や周囲に
与えることを試みる一日としましょう。