こんにちは、今日は5月10日 日曜日です。
お知り合いからの、また聞きの禅問答ネタです。
その禅寺では、泊まり込みで”禅”の修行ができるとのこと。
飲まず食わずとはいきませんので、お食事をいただきます。
すると、そのお食事をいただいている方に、お坊さんがこう、問いかけるとのこと
”味は、どうじゃ?”
問われた方は、概ね
”おいしいです” と、答える。
しかし、このお坊さん、もう一度
”味は、どうじゃ?” と、問いかける。
問われた方は、戸惑いながらも
”え、えぇ~、おいしいですよ”
すると、お坊さん
さらに、聞いてくる。
”味は、どうじゃ?”
と、無限ループ…
いわゆる、禅問答です。
問われた方の心には
”いったいこれは、なんのことだ?”
という疑問が渦巻き答えに窮するわけですが、この場合の受けこたえとして、”正しい”とされているのが
何も答えない
とのこと。
いかがでしょうか。
私も、この話を聞いたとき、いったいこの問いにどんな意味があるのか?
と、感じましたが、
しかし、視点をすこし動かしてみるといくつかの発見もあるようです。
・・・例えば
味は、しゃべるものではなく、味わうものということがいえるかもしれません。
あるいは、もっと大切なことに、
”あなたは、味にとらわれていませんか”
という問いにも聞こえる…
- 美味しいからOK
- 美味しくないからNG
が、本当に食べ物の本質なのか?
そう考えると、
”味は、どうじゃ?”
には
何も答えない
という解が正解なのかもしれませんね。
日々の私たちの忙しい生活のなかで、自分自身が意識せず、意図せず、ごくごく当たり前のように、 引っかかっている、とらわれていることがあるんだ…
そんなことを、この禅問答からも、何気に感じることができるのかもしれませんね。
今日の目標
”わたしは、○○でなければならない”
それが、
素直に自分や他を伸ばす目標にはならず、結果として自分をあるいは、周囲の人々を縛り付けていることがある
”○○べき”、”当然○○”、”あたりまえだが○○”
という様々な縛り、前提、こだわり、というものが、自分を不自由にし、自分の思考と行動に制約をかけてしまう
そんなことから、自分を自由にしてあげる、また、自分のまわりの人たち(家族・子供、同僚、部下…)を自由にしてあげる
そこから、本来の素直な成長が得られる
そんなことも、あるのかもしれませんね。
今日も一日、日々の自分の思考や行動のなかで、”歩く歩数を数えながら歩いている”ような、こだわり前提、縛りを、自分自身に、あるいは周囲の人々にしていないかをさらっと振り返り、そんなこだわり、前提縛りにより、どんなことが起きているのかを客観視することから、”○○べき”という言葉から、自分を少しずつ自由にすることを試みる一日としましょう。
今日は日曜日、自分の中にいる“こだわり”を少しでも手放してみるのはいかがでしょうか。
関連記事:
No related posts.