今日は、7月1日水曜日です。
今日の一言 “原因を追求し、責任を追求しない”
知合いの I さんから伺った言葉です。何か仕事でうまくいかなかった場合における話合いでのある会社の“ポリシー”であったとのこと。
その話合いでは、うまくいかなかったことについて、なぜ、それがうまくいかなかったのか、その“原因”について、納得がいくまで話し合うとのこと
○ 手順がまずいのか
○ 使ったツールの問題なのか
○ 動作、ふるまいがまずいのか
○ 事前準備がたりないのか
○ 知識が不足していたのか
○ 。。。
その原因がわかり、次回、どうすればよいか、がわかるまで、夜中までかかっても話し込む会社であったとのこと。
しかし、その会社では、その失敗にかかわった人の責任は追求しない“○○のせいで、こうなった”、 ”○○はできないやつだ”という議論はいっさいしない、とのことでした。それが、その会社の風土であったとのこと。
わが社・わが職場において、何かがうまくいかなった時“原因”というモノを見つめて議論をしているのか“責任”というヒトをみつめて議論をしているのか、さらっと振り返ってみることも良いことかもしれませんね。
この言葉は、自分自身にもあてはめることができるようです。自分で何かを試み、うまくいかなかったとき
○ 原因を追求するか
○ 責任を自分に追求するか
ということです。
原因を追求すると次回にむけて、“ここをこうしようか”という発想がうまれてきます。そんな発想が得られると、そこから、もう一度やってみよう、という勇気もわいてきます。
しかし、責任を自分に追求すると、でてくる結末は、“自分はダメ”といういたたまれない自己否定なのかもしれません。
“原因”という言葉は、客観的な言葉です。具体的に考え、思考し、分析し、明らかにしていく、つまり、“前進する”ことができる言葉です。
しかし“責任”と言う言葉はどうでしょうか。その“責任”というものを考えても、大雑把で、つかみどころがなく、いかようにも解釈ができる感情的な言葉、つまり“そこに、とどまってしまう”言葉のようです。
自分にとっての一番の宝は自分自身であれば、とどまる言葉よりは前進する言葉を自分にかけてあげるほうが、良さそうですね。
今日も一日、日々の家事やお仕事において、何かがうまくいかなったとき、自分自身や同僚に責任を追求せずともに原因を考え、明らかにし、そこから新たな前進するためのきっかけを自分と回りの人々にあたえる一日としましょう。