今日は、6月28日日曜日です。
私が勝手に師匠と考えている先生が、よく題材として使われる禅問答のような“問い”がありますので今日はそれをネタにします。
その禅問答です。
□ だれもいない森で、木が倒れた。音はしたのか?
。。。。
。。。。
いかがでしょうか。
ある場で、この問いをしたところ、
□ 音は、おそらくした。(でも、確認しようがない)
という答えが多かったようです。たしかに、これも一つの答え、でも、もう一歩大きなところから見直すこともできるようです。
例えば “そもそも、音ってなんだ?” という事です。
音は、空気の振動が耳の鼓膜をふるわすことにより感じられるもの。それであれば、誰もいないところで、“音” というのは存在するのか?それは、単なる空気の振動ではないのか? という疑問です。
すると、音とは、私たちを含め、耳をもっている生き物が、そのような空気の振動を
“音”としてい“認知”しているのではないかということに気がつきます。
これは、すなわち、“認知”されるからこそ、“音”というものが存在する。ということを示しているようです。そして、この禅問答は、これは私たちの日常においても、
その通りのことばかりであることを示唆してくれるようです。
例えば、次のような状況です。
○ お客様がいるからこそ、その商品に“品質”が与えられる、
お客様がいないなかで、あるいはお客様が評価しないなかで
“これは良いものなんだから”と、提供側が思いこんでも
それは、残念ながら、あまり意味がないのかもしれません。
“良いもの”と感じてくれるために、お客様をみつけるお客様にそう
感じていただくくためのもう一工夫が必要ということのようです。
様々な技術の発展により、人と直接対面しなくても、仕事というものを進めることができるようになってきたこの時代そんな時代においては、“自分は、がんばって○○をしている”と一方的に思いがちになるのかもしれません。
そんな時代からこそ、“だれもいない森で、木が倒れた。音はしたのか?”
という問いを心におきながら、自らの仕事ぶりや言葉・行動を、相手目線を意識し、振り返ることも良いことかもしれませんね。
- 相手目線を意識していない状況をすこし具体的にイメージしてみましょう。
- これは“良いものなんだから”、と売る側が主張する
- 相手が聞いているかどうかわからないまま、しゃべる
- 心がひらいているかどうかわからないまま、思いを相手にぶつける
このような、ふと気をぬくと自分もかなりの確率でやっていそうな状況からは
良い結果が得られにくいようです。
(これはすなわち、“音”はしなかった、ということ)
このような状況を回避するには、例えば
○ 相手にとっての”良いもの”とは何かを知る
○ 相手にまず話してもらい、こちらがそれを聞き、それに反応することにより、
相手が聞く状態になるようにする
○ 相手の心の琴線を知り、それにこちらも心から共鳴する
ということがあるようです。
そして、このような、“自分ではなく、相手を主体とする”アプローチをとること
により、はじめて、自らの行いや努力は高い“価値”をもつものとして存在するの
かもしれませんね。
今日も一日、普段の家庭や職場での様々な行いに、“相手を主体とする”
ということをすこしづつ、でも具体的に反映することにより、自らの行いの
“価値”をもう一歩高めるための試みを行う一日としましょう。