今日は、2月18日木曜日です。
今日の一言【知識・知恵の伝承と“関係性”】
“Oral Culture”
いつものとおりの、やや怪しい訳 “口語文化”
昨日、何気にみた、動画がありました。アメリカ、オレゴン州、ポートランド市が、札幌市との姉妹都市提携50周年を記念した事業についてのビデオでした。その事業で行ったことそれは、それぞれの地域の、“もともと”の人達についての展示を一緒にしよう、というものでした。
すなわち
アメリカ: ネイティブアメリカン(通称、インディアン)
日本 : アイヌの人々
の、伝統技術、工芸、音楽、文化を、一緒にならべて 展示しよう。。。というものでした。
で、実際に、そこで、主催者、参加者が共通して体験・発見した ことがなんであったのかというと。。。もともとの発祥は異なり、生物的、文化的にも同じルーツをもっていないはずの文化が。。。なぜか、よく似ている。。。 なにか、人としてのあり方、生き方に共通のもの、頭ではなく、心に響くなにかがある。
その、根底にあるものはなにか。もしかすると、それは、両方とも、文字をもたない文化だからとのこと。 言葉を表記する、文字がない ということは、言葉が言葉“だけ”のかたちで、そのまま残ることがない、ということです。
しかし、口語としての言葉はあります。すると、その、ある言葉を発するときには、なにかのできごとがあったり、何か話題にしたいことがある はずです。(空中にむかって、一人でブツブツ言うことは、普段、ありえない)すなわち、そのような口語文化では、知識や伝統は様々な有形、無形の存在と関連づけられ、口語として受け継がれていたということのようです。
例えば
ー 気象、地理、動物、植物。。。
ー 妖精、神、人のたましい
すなわち、人々が生きていく日々の過程において、おきる 様々なことその、様々なことにともに、言葉は語り継がれてきた、すなわち、知識や伝統、技術は受け継がれていたとのこと。
で、このことの本質は、どうやら
ー 文字言葉は、一人で書いたり、読んだりできるが、
ー 口語言葉は、様々な関係性のなかにしか存在しない
ということでもあるようです。 なので、口語文化では、自ずから、様々なこと、人と人、人と自然といった関係性が大事にされるのかもしれません。
その展示会を開催した方が、こんなことも言っていました。“口語文化では、着る服、食べる食物、作曲する音楽、語り伝えるお話といった、すべてのことがらが、生まれ育った土地と完全に編み込まれている。”私たちは、文字を編み出すことにより、時間と場所を超えて言葉を伝える技を身につけたようです。
しかし、そんな文字の多用により、私たちは、実は、そんな“関係性”を薄くしてはいないだろうか。。。そんなことを、ふと、おもいつくことができた学び深い一つの動画の話題でした。
で、こんな言葉もあるようです。
“文字というものは、人類の知識の蓄積に貢献したのではなく、権力による人間の支配の強化に役立った” (原典:レヴィ=ストロース らしい。。。)
。。。なんとなく、そうかもしれないと思えますね。。。
以前、ある神奈川県の博物館の展示物を拝見したとき文字をもたない縄文、弥生時代の“国の大きさ”と漢字が伝来し、次第にひらがながつくられていく時代における“国の大きさ”が、時代を進むにつれ次第に大きくなっていくことが、よくわかりました。
縄文、弥生時代では、おそらく、集落が国。声が届く、狼煙の煙が見える範囲でしょうか。漢字が使われていた鎌倉時代における“国”は、もしかすると、今の、大きな市ぐらいかもしれませんが、ひらがなが普通の人々でも使われる江戸時代になると、今の県ぐらいはあったはずです。
すなわち、直接対面せずとも、文字言葉だけで、意志が通じ合うことが可能となったのです。しかし、結果的にそれより、社会から“関係性”を置き去りにしてしまう副作用も生んでいるかもしれません。
で、今の時代、私たちが長時間、時間をかける会社という存在においても、いろんな文字が使われているようです。そして、そこには
ー 統制、規制のための文字もあれば
ー 伝達、すりあわせのための文字もあり
ー あるいは、思いを伝える文字もあるかもしれません。
それら文字はある、仕組み、ルール、システムのためには有効かもしれません
しかし、そこに“関係性”がなければ、本当の意味においての、知識や知恵の伝承にはならないかもしれない。(だからといって、仕組みやシステムが、一方的に悪いわけではなく、かえって“関係性”を提供する場づくりにつかうことはできるはずです。)
すなわち、大事はことは、それぞれの会社・組織においてどんな文字が、どんな目的のために使われているのかを、私たちが、意識していることなのかもしれませんね。
今日も一日、わが職場・わが社に存在する様々な文字、その文字が、どんな目的のために書かれ、また読まれているのかを振り返り、言葉の本質は、本来“その場における関係性”であることをさらっと振り返り自分の身の回りから、文字の使い方、そして語りで伝える言葉を増やし、関係性をもうすこし、深くすることを試みる一日としましょう。