こんにちは。今日は、5月20日水曜日です。
あるお知り合いの方とのメールのやりとりのなかからふと、気がついたささいなことです。
いただいたメールは、とてもうれしそうなメールでした。
社員の方のがんばりにより、お客様からとても良い評価を得ることができたとのこと
そこで、
”うちの○○部門を見直しました。わが社の顔にもなる 代表的な商品に育てられればと、過度な期待さえもしたくなります。”
との言葉でメールは締めくくられていました。
ここでなぜか、私の頭のなかでフラグがピッとたちました。
過度の期待
過度の期待って何でしょうね。
ネットでザクッと検索すると、過度の期待はだいだいにおいてネガティブな文脈で使われていることが多いようです。
曰く、”過度の期待により…”
でも、期待をすることは悪いことでしょうか ???
ということで、いつもありがたく利用させていただいているgoo辞書にお伺いをすると、
期待:よい結果や状態を予期して、その実現を待ち望むこと
…
全然OKな言葉ですよね。
良いことを予期して、待ち望むわけですから、ここにはネガティブな意味合いを読み取れないようです。
では、なぜ、”過度な期待”をしてはいけないのでしょうか。
…
それは、もしかすると、”期待”が、いつしか、”要求” にすり替わっている場合のことなのかもしれませんね。
例えば、赤ちゃんが生まれたとします。ご両親は、その子の未来が幸せであることを心から願うわけです。
その子の未来が幸せであることを予期し、その実現をいつまでも待ち望む
これは、”過度な期待” とは言わないようです。
親として、ただ自分の思いを相手に与えている状態です。
しかし、それが、いつしか、予期した結果の実現を相手に求め始めると、どうでしょうか。
”期待”が”要求”にすり替わる瞬間のようです。
○○であってほしい
が
○○でなければならない
と、変身してしまうことかもしれませんね。
普段何気に使っている”期待”という言葉、
でも、自分自身はどのようにそんな言葉を使っているのか… そんな、些細なこと、でも、もしかすると自分自身や、人間関係を良好に保つためには大切ななにかを、ふと気がつくことができたお知り合いさんからのありがたいメールでした。
さて、ということは…
”過度の期待”という意味は、本当は期待が要求にすり替わっているかどうかがポイントで、期待のレベルが過度であるかどうかの問題ではないということかもしれませんね。
○○であってほしい
そう願うことは、現実がどうであっても、いつでも出来ることです。そして、そうであるために、自らなにかを始めたり、相手を助けたりすることができる言葉のようです。
しかし
○○でなければならない
そう思い始めると、その要求に適合する”結果”をなんとか自分自身や相手から絞り出したり、引っ張り上げないといけなくなったりします。
でも、それができない時もあります。
そんな時のことを、”過度の期待”というかもしれません。
すなわち、”得られた(る)結果”が”自分の要求”に満たない、あるいは満たないかもしれないと、予測できるときそれは”過度の期待”というのかもしれませんね。
でも、その”過度の期待”の基準となっているのは、純粋は思い・期待が変身してしまった、”自分の(ある意味勝手な)要求”の程度ということなのかもしれませんね(汗) 今日も一日、家庭や職場において、自分が自分自身に対してまた職場の仲間や部下に対して掲げる”期待”という言葉にどんな意味を持たせているのかをさらっとふり返り、自分や相手に結果だけを要求するのではなく、思いや期待を実現に近づけるために、今、自分のため、相手のためにできることをしつつ、期待を高く保ち続ける一日としましょう。